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最後の入院生活

母は食事を食べることも、歩くこともだんだんと出来なくなり、ついに入院することになってしまいました。

私はまだ高い健康食品を買って、入院しても母に飲ませていました。入院しても母は元気に振る舞っていました。痛みどめの薬を飲めば楽になり、寝ていれば苦しさはほとんどありませんでした。

しかし、だんだんと症状が悪くなっていきました。痛みどめの薬が効かなくなり、きつい薬に変えていきました。体力も無くなりベッドから起き上がるのも困難になっていきました。

妻も私も身の回りの世話をできるだけして、交代で看病をしていました。妻は実の母のように本当に母の面倒を見てくれました。感謝しています。娘も病院に行っては、ばあちゃんに元気を与えてくれました。母の兄弟も遠方から来てくれて、母に笑顔を与えてくれました。

兄弟の叔母は、昔、何度も兄弟で旅行に行ったことの話をしてくれて、早く元気になって、また楽しい旅行に行こうと何度も言ってくれていました。母ももうちょっと待ってってなあと笑顔でこたえていました。

叔母たちは、母の見えないところで涙をながし、なぜ母だけが兄弟のなかで一番苦労して、こんなにつらい目にあって、こんなに早く亡くならなければいけないのかと言ってくれていました。

私も母の治療をあきらめてはいませんでしたが、毎日一人になっては泣くようになっていました。

おかん、ごめんなあ たいして親孝行もでけへんかったし、いろんな事を楽しませてあげるんんも少なかったわ。もっと旅行にも連れていけばよかったし、もっと美味しい食事も食べにいけばよかった。苦労したことの方が長かったよなあ。

母は口の中も悪化して、食べることも困難になっていきました。タンもからむようになり、看護婦さんに機械で吸いだしてもらうようになりました。痛み止めの薬も効かなくなり、とうとうモルヒネで痛みを和らげるようになりました。

モルヒネを使いだした頃はよく効いて、痛みも無くなっていましたが、幻覚などが見えるようになり、母の精神状態も普通ではなくなってきました。

そして、医師にもうそんなに長くはありませんと告げられました。それでもまだ私は死なせないと思い、健康食品を母に飲ませていました。バカな息子ですよね。

母は話すことも困難になり、手で話をしていました。私も妻も1日中母に付き添っていました。朝から夜までは妻が、私は仕事が終わるとそのまま病院に行って朝まで付き添っていました。そして仕事に行っていました。

母は話せなくなる前に、早く二人目の子供を作って兄弟を作ってあげなさい。健康だけは努力しなさい、おまえが若いのに病気になったら、おまえの周りの人が一番苦しんでしまう。と言っていました。最後が近づいているのが分かっているような言葉でした。

そしてモルヒネを使いだして間もなく、母は亡くなりました。朝の仕事に行く途中に電話がかかり、病院に着くともう亡くなっていました。最後にそばにいてやれなかったことも悔やみました。

病院に付くと、私は泣いてしまいました。妻の前でしたが大泣きでした。おかんおかんと何度も話しかけていました。

おかん 67歳で天国に行ってしまいました。おかんありがとう、苦労して育ててくれて。おかんの子供で良かった。思いやりや人と人との大切さを教えてくれたんはおかんやな。

母が亡くなって、私は一人で毎日のように泣いていました。おかんとの思い出を思い出しながら、亡くなった現実を受け止められませんでした。

そんな情けない気持ちのまま過ごしていたので、ついに胃潰瘍になってしまいました。幸い薬で治りましたが、このまま落ち込んだ気持ちで過ごしていくと、ダメになってしまうと、反省しました。

母は話せなくなる前に、健康だけは努力しなさい、おまえが若いのに病気になったら、おまえの周りの人が一番苦しんでしまう。この言葉を思い出し、その日から考えを変えました。

母の事を思いだしてしまうと、楽しいことだけを思い出すようにしました。そしてまた生まれかわっても母の息子になれるように願っています。





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